Bio

日本、山形(1985)

​私は山形にある小さなレストランを経営する家族の4兄妹の末っ子として生まれました。毎日友達と遊び、勉強しろと言われることもなく自由奔放に過ごしてきました。しかし、家庭事情は複雑でした。父が双極性障害になり、私達に「殺すぞ」と脅してきたこともありました。母は超が付くほどの批判家で、私が何かを達成したり、気遣ったりしても褒めてくれることはありませんでした。私が日本を出たいと思い始めたのは、このような命の危険を感じる家庭事情が根源だと思っています。

カナダ、バンクーバー(2004)

18歳の時、私は日本を出てカナダに留学することを決意しました。当時は、国際連合で働くことが夢でした。日本の田舎で生まれ育った私は英語があまり得意ではなく、このままではいけないと思い、太平洋を超えることから始めようと思いました。しかし、無事カナダに渡ったものの、私が陥ったのは広場恐怖症(過度の不安症)でした。家を出ることができなくなり、それから2年間、引きこもりました。

カナダ、バンクーバー (2006)

広場恐怖症で衰弱している中、私は外を見たい気持ちにもなりました。そして、バンクーバーのファーストバプティスト教会のホームレスシェルターにボランティアに行きました。そこで、不平等、麻薬中毒、精神病、その他様々な困難と戦っている人々の現状を目の当たりにしました。同時に、私は老人ホームで音楽療法のアシスタントとしてもボランティアをし、お年寄りの方たちがリクエストした曲をピアノで弾きました。これらの活動を通じて、私はこれからも人を支える仕事を続けていくべきだと悟ったのです。

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ケニア(2008)

コロンビア大学に通うためにニューヨークに行くには、私は広場恐怖症を克服しなければなりませんでした。そして、アフリカに行くことを思いつきました。唐突すぎるように聞こえますが(実際そうでした!)、アフリカで生き残れたらどこでも生き残れると考えたのです。アフリカでは何回もパニック症状になりましたが、重力、水、空気、そして人が存在する限り、どこでも生きていけるという自信をつけることができました。

ニューヨーク、国際連合 (2010)

ニューヨークで学んでいる時、国連本部の日本国連代表部でインターンをすることになりました。夢が叶ったのです!ラッキーなことに、2010年の国連総会は私の注目していたミレニアム開発目標に焦点をおいていました。アフリカに2年間いた私にとって、国際政治という分野でどれだけ開発問題が重要に扱われているのかを知れたことは本当に幸運であり、同時に呪いとも言えました。そしてその時私は、国際連合は自分がいるべき場所ではないと感じたのです。

ニューヨーク、コロンビア大学 (2012)

コロンビア大学では、自己の確立について追求したく、社会学と哲学を二重専攻しました。言い換えれば、自分自身と世界の繋がりについて知りたかったのです。未だ広場恐怖症が完治しておらず、クラスでパニックになるかもしれない恐れと毎日戦っていた私にとっては、これらの教科は自分と向き合うのに効果的でした。また、良い精神科医に出会い、広場恐怖症も徐々に快方に向かいました!コロンビア大学では、いくつかの名のある奨学金を受賞し、優等で卒業しました。

日本、東京 (現在)

国際連合や外務省では、私が学んだことを活用しても最も効果的に貢献できないということを知り、心が折れました。そしてそれが私は教育の分野でゼロからスタートしようと決意した理由でもあります。もし私が若い世代の可能性を開花させたら、世界はもっと良いものになるという信念が今の私を象っています。私は私の生徒の生徒である教育者です。この場が私に最も適していると実感しています。

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